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恋物語の残る峠
美女峠
美女帰り峠
2024.04.02
この記事の書き手 奥会津商店 店主
この奥会津商店を切り盛りする店主。大好きな奥会津をみなさんに届けます。いらっしゃいませー!うちの商店楽しんでってね!
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「美女峠」またの名を「美女帰り峠」

昭和村・野尻(中向)から三島町・間方へ通じる古道、美女峠。

藩制時代は、南会津郡から北会津郡を結ぶ主要な交通路の一つとして使われていたそう。

昭和の20年代までは、宮下駅(現在の三島町・宮下)で汽車を降り、20キロほど歩いて家路を急いだという。昭和31年に川口(現在の金山町・川口)に汽車が通るまでは昭和の人々は、この美女峠を越えたというのだから驚き!

この山頂に美女がいそうな峠、悲しき伝説が残る−。

美女峠は、美女帰り峠とも云われ、鎌倉時代の悲しい恋の物語が残っているのだそう。
昔目指左ヱ門尉知親という侍が平維盛に長くつかえておりましたが、寿永の乱のあと平家が没落して浪人となり、一人娘の愛情にひかれて自害もならず、落ちのびて奥州にください、俎倉山の麓、野尻村の横深という処の山にかくれて庵をたて住んでおりました。
娘は高姫といって十八才のみめうるわしく、かぐわしい世にもまれなるやさしい乙女でありました。
また下男の弥蔵というのも、かいがいしく二人につかえ、茶店など出して餅をうち、あきないをして孝養をつくして生活しておりました。
峠の向側中向の沢入り兎久保という処に同じ平家の落人で、中野丹下という歳のころ二三、四の美しい若侍がすんでおりましたが、いつしか馴染みとなり愛しあおうようになりました。
丹下は夜ごと峠をこして横深の高姫のところにかよいました。
ある時丹下は都合がわるくしばらく高姫のところに行かなかったので、高姫は淋しさにたえず、丹下に会いたいものをと、峠のふもとにある清水わきいでる霊池で、口をそそぎ心を清めて、恋の結びの神に両手を合わせ、
 千早振 神も情のましませば 我が恋人にあはせ給ひや。
と詠んでひたすらに祈願しました。

出典:『昭和村の歴史』(昭和48年刊行)

実は、本当の道は違う!?

美女峠に通じる道は、複数あり、すべて途中の松坂と呼ばれる場所で合流します。

中向区長の中丸さんとお話した際に、「今の美女道は、本当の美女道じゃないんだよ。」と教えてくれて、現地を確認して解説してもらう約束をしていたのですが、季節は過ぎ、未だ実現していません。雪が溶けたら、改めてご紹介しますね。

気になって、文献を調べたところ、画像の「野尻口」から登ったに際に、馬頭観音があります。馬頭観音を「現在は左に行くが、本来は右に行く。野尻とん中向の出会いの場所に出て、そこから登り、イシコロに行くほうへと分かれて左に向かうのが本来の道」と記載している資料がありました。(昭和村の歴史Ⅱ 昭和村のあゆみ〜昭和から平成へ〜 平成23年刊行)

さらには、「電線が通っている道なので、冬停電になった時困る。きれいにしておかないと本当の道が消えてしまう。」との記載もありました。

美女峠の山頂、俎倉山にはテレビ塔があり、昭和村に2つあるテレビ塔のうち親局となっている重要な施設です。

何年か前に、中向地区では大規模な刈り払い作業や道の修繕を実施しており、その時の写真に、電線や電柱が写っていることから、これが、本来のルートに近い道なのかもしれません。

そんな美女峠ですが、こちらも吉尾峠と同じ、歩く県道となっており、道普請による補修作業が行われています。

かつて、先人たちが歩いた道を後世に伝えるための、取り組みは、集落はもちろん、建設事務所、地元役場など複数の方々協力して行われています。

 中向地区分の美女峠の複数ある入り口は、刈り払いだけでも相当な労力を要することから、最近では集落で導入したトラクターが行ける部分は、トラクターにより草刈りを行っているそう。

歴史を未来に伝えるために、時代にあわせて、技術も積極的に活用していく。

そんな素敵な取り組みを続ける中向地区の取り組みをご紹介しました。
追加のレポート掲載まで、こうご期待!

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